「家出のすすめ」を書いた寺山修司は、死ぬまで母親と同居していた?

寺山修司
寺山修司
写真は、こちらからお借りしました。

「家出のすすめ」「書を捨てよ、町へ出よう」などの著作で知られ、多くの若者の思想に影響を与えた寺山修司(てらやま しゅうじ、1935年 – 1983年)。
詩、俳句、戯曲(ぎきょく)、映画、競馬評論と、その活躍の広さは比類がなく、それが今なお正当な評価がなされていない原因かも知れません。

さて、寺山修司は、「家出のすすめ」において、「若者はひとりだちできる自信がついたら、まず親を捨てましょう」と語り、「母は幼い自分をおいて男と駆け落ちした」とか、「父が病死したのも母のせいだ」とか、母をまるで鬼畜(きちく)のように書いています。

また、映画「田園に死す」では、成長した自分が少年時代の田舎にもどって、母親を殺しに行く場面が物語のクライマックスになっています。

これらの寺山作品に影響されて、田舎を捨てたり、親元を離れて自活を始めたという若者が、以前は大勢いたものです。

では、当の寺山本人と母親との関係はどうなっていたかというと、意外にも、寺山が結婚していた一時期をのぞき、死ぬまで母親といっしょに住んでいたというから驚きです。

もっとも、同じアパートの1階と2階だったのですが、寺山は母を連れて食事に出たり、旅先からも土産を買って帰ったりと、素顔はなかなかの孝行息子でした。

また、寺山の主催していた劇団「天井桟敷(てんじょうさじき)」の1階で、母親が喫茶店を経営していたこともあり、劇団のお金がなくなったりすると、寺山は真っ先に母親に相談していたそうなので、むしろ、普通の親子よりも密度感の高い親子だったようです。

それでは、寺山の作品と、実生活のどちらが、本当の姿だったのでしょうか?

これは、非常に判断の難しい問題ですが、おそらくどちらも偽らざる本心だったものと思われます。

母のそばにいたいという自分と、そんな甘えを戒(いまし)める自分。
その葛藤(かっとう)が、寺山作品の原動力だったのかも知れません。

 

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